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桐野安生 さん

キリノヤスオ

ソニー・ミュージックアーティスツに所属のお笑い芸人[桐野安生]のネタ動画や情報を紹介。

桐野安生


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桐野安生

よみがな:きりのやすお
本名:
生年月日:1978年10月2日 
血液型:A型

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桐野安生のみそっぱレロレロ日記 芸人、桐野安生の日常を、徒然なるままに描いた名作ドキュメント!

  • 2022年、今年の総括
    on 2022年12月30日 at 20:38

    今年も総括の時間となりました。ご無沙汰しております桐野安生です。皆さんにとって2022年は、どんな年だったでしょうか?まだまだコロナ禍で、不安定な日々を過ごしている方も多いかと思います。自分の様に社会の底辺におりますと、この国の疲弊を肌身に感じます。冗談ばかりのコメディアンを真面目にさせてしまうのだから、日本の状況はよろしくないのでしょう。そして世界を飛び交うニュースも、戦争、貧困、異常気象と暗いものばかり。ドーナツが二つあるなら、一つを分け与えれば良いのです。それだけで世界は良くなる気がします。まあこんな会話すら「芸人が思想を語るな!」と叩かれかねない時代なので、これで終わりにしますが、いつのまにか息苦しい世の中になってしまいました。さて、今年の芸人としての活動は、ザコシショウさん、有ジェネ、ランジャタイ、虹の黄昏など先輩や芸人仲間から頂いた仕事だけでした。本当にありがたい事ですが、感謝しつつも甘えてばかりもいられないので、来年は、自分で仕事を獲得していかないといけません。ただ今年のオーディション本数が0本だったので、かなり厳しい状況ですね。頑張らねばなりません。そして、生活の基盤を支えるバイトですが、こちらは波乱の一年でした。一年前からやっていた弁当屋のデリバリーは、店のオーナーが突然、給料未払いのまま消えてしまい店舗も消滅。あてにしていた給料が無くなった為、次のバイトが決まるまで生活が大変でした。そんな折に、芸人仲間の紹介で入ったゴミ清掃車のバイトは、情け無い話、2ヶ月で辞めてしまいました。可燃、不燃、廃品、古紙、ビン缶、色々な現場を回りました。仕事は、なかなかきつかったですが、基本、良い人も多かったので、やっていけるかと思ったのですが、中には人をいびるのが趣味みたいな人もいて、理不尽に何度も怒鳴ったかと思えば「お前、俺の弟子ね、俺の元で修行すれば廃品回収のプロになれるから。」と言ってきたり、とにかく気持ち悪すぎて辞めてしまいました。ただこの経験は2ヶ月という短い間でしたが良い経験になったと思います。なかなか清掃車で働く機会はないですからね。頭が下がるお仕事です。次に求人誌から選んだのが遺跡発掘のバイトでした。東京郊外の畑へ行き、炎天下の中、延々と土を掘る仕事でした。全身筋肉痛になりながらも、作業自体は面白かったのですが、人間関係が上手くいかず3日で辞めてしまいました。(これは100%自分が悪いです、誰ともコミュニケーションをとれませんでした。)その後直ぐに始めたのが美術館の展示や搬入搬出のバイトでした。こちらはなかなか面白く、地方の美術館へ何泊も出張したり、名画や一級の美術品を肌で感じて良い経験になりました。ただ難点も多く、深夜に電話やメールで叩き起こされる事もしばしば。明日の現場が変更になったと片道40分の現場から片道2時間の現場になったり(作業員病欠の為)それはご時世的に仕方ない事なんですけど、とにかく現場変更が多すぎて、前日から振り回されっぱなしでした。そして一番の問題は、給料明細がもらえなかった事です。実は、弁当屋のデリバリーも給料明細をもらえず、結局、不透明なまま逃げられてしまったので、このバイトも怪しいなと。そして、何かと会社の都合の良い様に働かされていた気がしました。ある時は、早朝4時に出発して往復4時間かけて、4000円ぽっち(実働4時間だからとのこと)の仕事だったりしました。実働が4時間であっても、8時間以上拘束されている訳ですから、その分の補填が無いと、誰も働かないと思います。今の社会はバイトを良い様に食い物にしている気がします。とにかく頼み込んで、一度だけ給料明細をもらう事が出来たのですが、やはり自分の計算より少なく、出張費の計算が合わない為、信用出来なくなり辞めました。まあこんな感じで1年間でここまで職を転々としてしまった自分は、社会不適合者なのかもしれません。それとも単純に我慢が足りないだけなのか?もっと大人になって踏ん張るべきだったのか?とにかく自分は生きづらい生き方をしてるなとつくづく思います。こんなバイトの話をつらつらと書き並べて、何がしたいのか?と思われるかもしれませんが、このブログは、あくまで個人的な日記の様なものなのでご了承下さい。まあなんだかんだありまして、現在は、原付を買ってウーバーイーツで生計を立ててます。毎朝6時半に起きて、決まった時刻にスタート。1日のノルマも決めて計画的にやっているので、生活は、次第に安定してきていると思います。ただ、配達依頼が少ない日もありますので、不安定な事に変わりはありませんが。Uberの面白いところは一件配達するごとに、どんどん知らない街へと飛ばさせて行く事です。その飛ばされた先で、次の依頼を受けてまた飛ばされていく。そうやって都内を北から南へ南から西へ西から東へ、ぐるぐる巡ります。ここ最近は中目黒をよく回りました。去年の1月2日、間もなく一年が経つ訳ですが、ちょうどこの中目黒の街を平賀淳君と歩きました。最後は中華屋で飲みましてね、その店の前を通る度にあの晩の事を思い出します。山岳カメラマンをしていた平賀淳君は、今年の5月18日にアラスカの地で滑落事故に遭い亡くなってしまいました。訃報を聞いてから今日まで、平賀の事を思い出さない日はありません。それだけ大きな存在でした。今年は、平賀との思い出を巡る一年となりました。学生時代の友人達と久しぶりに会って、平賀の事を語り明かしたり、思い出の地を巡ったりもしました。しかし、学生時代に平賀のアパートがあった登戸の地はすっかり変わってしまいましたね。僕の記憶も曖昧で、多摩川沿いの景色で覚えているのは、この2本の木ぐらいでした。まあ20年以上時が流れているのだから仕方ありません。残念ながら平賀が住んでいた風呂無しアパートチロリアンハウスは解体され、スポーツジムになっておりました。しかし、その隣にあったらーめんはうすは健在でしたね。よくここで平賀とスタミナ定食を食べた思い出があります。しかしこの日は運悪く休業日でした。たまに思い出すんですよね、平賀と食べたスタミナ定食の味。数ヶ月後、登戸へ用が出来たので、再度らーめんはうすさんへ行って来ました。しかし、店内へ入ると記憶と全然違うんですよ。以前はカウンター席だけだったと記憶してましたが、奥に何席もあったり、記憶よりもだいぶ広いんですよ。…改装したのかな?で肝心のスタミナ定食ですが、これも記憶と全然違うんですよ。ボリュームあって、美味しかったのですが、見た目も味も別物でした。以前は、鉄板皿にニンニク醤油で炒めた肉と野菜がのっていて、更にその上に卵の黄身がトッピングされていたイメージでした…別のメニューだったのかな?それとも20年前とメニューが変わってしまったのか?↑こちらのスタミナ定食は、味噌味でした。平賀との記憶を巡る旅は、あやふやなまま終わる事もしばしばですね。あいつが生きていれば、また笑って答え合わせも出来たのですが。とにかくUberの様に同じところをぐるぐると回ってばかりもいられないので、来年は前進出来る様、頑張ります。あと笑かしたい人の顔を、明確に持たないといけませんね。最近、そこがあやふやだった気がします。今一度、情熱を!!本年は大変お世話になりました!来年もよろしくお願い致します!皆様、良いお年を!

  • 4. 友、平賀淳を偲んで。
    on 2022年6月30日 at 02:00

    今年の一月、僕らは数年ぶりに会って食事をしました。近況報告に始まり、仕事や仲間たちの事、僕らは時が経つのも忘れて話し込みました。お互いに歳は重ねたものの、あの頃と何ら変わらなかった。大いに笑ったし楽しい時間でした。「今度、同窓会をやろう!」平賀が言った。それから頻繁にLINEが届く様になった。相変わらず忙しく日本中を飛び回っていた様で、毎回撮影地の写真が添付されていた。普段目にする事の出来ない、厳しい雪山の画像だった。自然は、過酷であれば過酷である程、美しい一面を覗かせるのだと思った。そして、そこに身を置く事で、彼の心は澄み切っていたのかもしれない。平賀のお葬式には本当に多くの弔問客が訪れた。お焼香も順番待ちとなり、別室で待機する必要があった。その数ある待機部屋すら人々で埋まっていた。正直に言うと、僕は彼の偉業を知らない。彼が山岳カメラマンとして第一人者と呼ばれていた事も亡くなってから知った程だ。ただ僕にとって彼は、ずっと光り輝いていた。出会った瞬間から亡くなった今も尚、彼の放つエネルギーは真っ直ぐで、特別だった。そして、彼の誠実な人間性こそが、何よりも偉業だった様に思う。お焼香待ちの待機部屋では、皆が口々に平賀との思い出を語っていた。皆がそれぞれに特別な思い出を持っていた。あいつは、本当に多くの人に愛され、何より愛を与えていったのだろう。この場に平賀がいればな…。僕は、何度となくそう思った。この場にあいつがいたなら、どれだけ楽しかった事か。集まった懐かしい顔ぶれや、出棺時のBGMがノリノリのブルーノマーズだった事。あいつがいたら大笑いしながら話していたに違いない。とにかくあいつと話したい事が、またしても山の様に出来てしまった。実は、葬儀の数日前、僕は、奥様のご厚意で、帰国したばかりの平賀に会わせてもらっていた。訃報を聞いてから、ずっと信じがたい気持ちだったし、一刻も早く会いたいと思っていた。とにかく平賀の顔を見ない事には、気持ちが落ち着かなかったのだ。しかし、斎場へ向かう途中、その事の意味を改めて考えた。対面する事で、いよいよ僕は、平賀の死を受け入れなければならないのだと。対面した彼は、クレバスに落ちたとは思えない綺麗な顔をしていた。僕は無宗教ですし、信仰心がある訳ではない。でも、魂の世界に畏怖の念は持っている。彼はきっと徳を積みすぎて、この世の修行を全て終えたのだと思った。だからいち早く、天国へ帰らされたのだ。身勝手だが、僕はそう思う事にした。奇しくも平賀の名前に似た6月(june)が終わり7月がやって来る。この文を書き終えて、僕は、悲しみに暮れるのをやめようと思う。あんまりウジウジしてると、平賀に言われそうですしね。平賀淳は、僕にとって最良の友でした。この先もあいつとの対話は続くのだと思います。あいつが言いそうな言葉は解りますしね。どうせ死ぬほどポジティブなんだから。

  • 3. 友、平賀淳を偲んで。
    on 2022年6月30日 at 01:59

    僕が平賀に感謝しなければならないのは、多感な時期に出会い、さまざまな面で、僕を成長させてくれた事だ。これまた記憶が曖昧だが、映画学校を卒業した後、平賀を交えた同期4人で飲んだ事がある。確か映画のエキストラに参加した帰りだった様に思う。その居酒屋で、僕は槍玉にあげられる。僕以外の3人は海外に行った事があったが、僕だけ無かったのだ。その事で、同期から「外国へ言った事のない奴は、行動力がない奴だ。」と槍玉にあげられた訳だ。もっとも、その場にいた平賀が、それに加勢する事は無かった。彼は、人の自尊心を傷つける様な事は決してしなかった。ただその場で静かに事の顛末を見守っていた。僕は言った。「海外に行く事など、お金があれば誰でも出来るし、自慢する様な事ではない。」すると別の同期が「それは行ってないからそう思うんだ。行ってない人間が何を言っても説得力が無い。」これには流石に頭にきたので「じゃあ、明日アメリカへ行くわ!」と僕は啖呵を切った。平賀は「良いじゃない!」と笑っていた。あいつも、海外へ行く事など大した事ではないと思いつつも、僕が、外国へ行ったら面白そうだと思ったのだろう。翌日僕は、渡航の情報収集の為、本屋へ向かった。求人誌に目が止まる。偶然、フロムエーが「ニュージーランドで働こう!」という特集記事を組んでいた。アメリカでは無かったが、これは正しく神のお告げだと感じた。しかもオークランドという街でカメラマンのアシスタントを募集していたのだ。その日のうちにワーキングホリデーのビザを申請し、取得するのに2週間弱かかったが、僕は、最短ルートでニュージーランドへ飛んだ。募集要項には入国してから連絡して下さいとあったので、現地でカメラスタジオを探し、訪ねると、今は募集してないと門前払いをくらった。(怒涛の展開である。)結果として僕は、半年間ニュージーランドを旅し、残りの半年間は、クライストチャーチのレタス農場で働いた。旅では、トレッキングコースや山を見つける度に、歩いたり登ったりした。頭にチラつくのは平賀の事だ。「あいつなら、こんな時どうするだろう?」「流石にあいつも、こんな絶景は、観てないだろうな。」困難に遭う度に、絶景を目にする度に、平賀の事を思った。平賀と出会ってなければ、あのニュージーランドの日々も無かっただろう。先日、平賀の奥様からメールを頂いた。彼の本棚に、あったそうです。(ニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーの自伝本です。)僕もすっかり忘れてましたが、旅の終わりに平賀へ買ったものでした。ずっと大切にしてくれていたんですね。帰国後、僕は、平賀と以前の様に連絡をとらなくなった。その頃の僕は、劇団を立ち上げたり(劇団は一年で解体。)お笑いを始めたり、新しい世界に飛び込んでいった。平賀は、山岳カメラマンとしてのキャリアを着実に積み重ね、登山家野口健さんの元で、夢だったエベレスト登頂を成し遂げます。「おい、何やってるんだ?たまには飲むぞ!」平賀からは、唐突に誘いの電話がかかって来る事があった。その誘いを、僕は何度となく断った。何故断ってしまったのか?恥ずかしい話だが、僕は、どこかで、あの沖縄の一件を引きずっていたのかもしれません。我ながら器の小さな男だと思います。同時に、違う道を歩み始めた自分は、また平賀に依存してしまう事を恐れたのかもしれません。よく言えば、成長の過程で必要な期間だった様にも思いますが、今となっては後悔しています。こんなにも早く別れがやって来ると知っていれば、もっと頻繁に会うべきでした。それから何年も、そんな関係が続きましたが、結婚式には会いに行きました。彼の人生最良の日に立ち会えて本当に良かったと思います。そう言えば平賀は、僕に内緒で何度かライブを見にきた事があった。終演後、帰るお客様の列に平賀の顔を見つけた時はびっくりした。「面白かったぞ!」そう言い残して、こちらを気遣ったのか足早に帰って行きました。その日は、結構スベってたんですけどね。あいつは、いつも背中を押してくれてたんだと思います。逆に、平賀からも自身が手がけた番組が放送される時や、コメンテーターとしてテレビに出演する際は、連絡が来ました。もちろん録画をして、リアルタイムで観れる時は観ました。スタッフロールに平賀の名前を見つけた時は、嬉しかったな。あれはNHKの番組だったかな?山岳カメラマンのコメンテーターとして彼が出演した時は、笑ってしまった。慣れないスーツにネクタイを締めた彼は、緊張してるのか?驚くほど顔がこわばっていた。アナウンサーの問いかけに対しても、的確とは言い難い、外堀から少しずつ埋めてゆく様な、回りくどい返答で、その言い回しは、学生の頃となんら変わらなかった。僕はすぐさま平賀にメールした。緊張した感じに見られた事が、彼としては不本意だったようだ。       (次に続きます。)

  • 2. 友、平賀淳を偲んで。
    on 2022年6月30日 at 01:59

    平賀淳という男は、熱い男だった。そして、とことん優しい男だった。その優しさは、自身が強くなければ突き通す事の出来ない優しさで、あいつがいつその様な力を手に入れたのか?僕は不思議でならない。亡くなったから美化している訳では無い。彼を知る人なら頷けると思うが、彼は、他人の為に血を流せる強さと、困難を弾き飛ばすユーモアを常に持っていた。その姿は、出会ってから、亡くなるまで一つも変わらなかった。彼はとても綺麗な魂のまま亡くなった様に思える。こんな事を言うと「馬鹿やろう!お前に何が解るんだよ!」と奴につっこまれそうだが、今となっては本当にそう思える。とにかくそんな男だから、平賀は、色んな人に愛された。あれは、いつだったかな?記憶が曖昧だが、僕らは在学中、夏休みを利用して京都へ旅行へ行った事がある。お互いお金が無いので、小田原辺りから鈍行で何時間もかけての旅だった。当時、僕らは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に熱中していて、自身を龍馬に照らし合わせていた。「俺が龍馬で、君が中岡慎太郎ね。」僕はそんな事を言って、龍馬の気分でその舞台となった京都の街を歩いた。実際のところ、気質は、平賀の方が圧倒的に坂本龍馬だった。京都の一泊目は安宿に泊まり、二泊目は、平賀が以前、京都へ来た際に(なんらかの遠征)知り合ったというパイプ会社の社長さんのマンションに泊めてもらった。その社長さん(当時50代後半ぐらいの方)の話では、銭湯の電気風呂に入ってる平賀を見て、面白そうな奴だと思い、話しかけたら、面白かったので、そこからの付き合いになるとおっしゃっていた。平賀は、そういう人たらしなところがあった。僕らは、豪勢な食事をご馳走になり、マンションでもお酒を頂戴した。社長さんは、二十歳そこそこの若造相手に楽しそうだった。社長「僕はね、社長業をやっているから、人を見る目はあるつもりだけど、この平賀淳と言う男は、凄い男になると確信してる!だからこの先、彼がどうなっていくのか楽しみで仕方ない!」お酒も入っていたせいか、社長は何度も繰り返し平賀を褒めちぎった。坂本龍馬の気分でいた僕は、この社長さんからは相手にもされず、疎外感と劣等感で、早目にふて寝した事を覚えている。とにかく平賀は、瞬時に人を魅了してしまう男だった。そして自尊心や承認欲求が溢れ出た20歳の自分には、平賀は眩しい存在だったのかもしれない。以前は噛み合っていた歯車が、成長の過程で噛み合わなくなる事は、よくある事だ。平賀は、世界に飛び出してどんどん大きくなっていった。僕が映画学校を卒業し、アルバイトに汗を流していた頃(当時、自主制作用のビデオカメラを買う為に、建築現場や解体現場で働いていた。)平賀から電話があった。平賀「かずお!今すぐ沖縄へ来い!どうせ何もしてないんだろ?宿と飯の心配はしなくて良いから来い!」詳しくは聞かなかったが、彼はこの時、沖縄に滞在して仕事をしていた様だ。僕はその場は断ったものの、数日して、行ってみようか?という気分になり、折り返し電話してみた。平賀「ごめん、予定が変更になって沖縄を発つ事になったからあの話、無しになった。」来いと言うから真剣に考えたのに。若い僕は、この時、彼と口論となった。平賀「沖縄に来たいと思ったんだろ?だったら自分の力で来れば良いじゃないか!」珍しく平賀が感情的に反論して来た。彼は、議論はするが、喧嘩になる様な口論はしない男だった。そしてこの後彼は、一方的に電話を切った。平賀とは何度か喧嘩をした事はあったが、自ら会話を辞める事はしなかった。納得いくまで話し合うのが、彼のスタンスだった。その彼が電話を切ったのだ。僕らはもうもう噛み合わなくなってしまったのだろう。成長の遅い自分に嫌気がさしたのだろう。無理もない、当時の彼は、世界を旅して、多くのものを吸収し、一回りも二回りも大きくなっていた。いつまでもゆっくり回る、小さな歯車では噛み合わなくなるのも当然だ。当時の自分は、そんなふうに考えて、ひねくれていた様に思う。結局のところ僕は、平賀に甘えていた訳だ。平賀が言う通り、行きたければ、一人で行動すれば良かったのだ。その行動力の無い自分の不甲斐なさを棚に上げ、僕は平賀を責めた訳だ。そして、この件で、僕は、人との距離について学んだ。当時の自分は、友との絆を確かめる為、壊れるまで叩く様な所があった。でも友情というものは、確かめるものでは無く、信じて育むものなのだ。相手に期待せず、結局独りなのだという意識も大切だ。それは一見、寂しく聞こえるが、むしろ、自身がどれだけ人を信じられるのか?その決して派手では無い、静かな戦いこそが、唯一の愛ある道なのかもしれない。とにかくあれだけ人に寛容で優しい平賀を怒らせたのだから、当時の僕は困った男でした。もっとも後日、平賀はあっけらかんと連絡して来る訳ですが。でもこの一件で、僕は、平賀との付き合い方を変えた。自身の成長の為にも、僕は平賀との距離を考えなけれならないと思ったのだ。             (次に続きます。)

  • 1. 友、平賀淳を偲んで。
    on 2022年6月30日 at 01:58

    2022年5月18日山岳カメラマンの平賀淳が亡くなった。アラスカの地で撮影中の事故でした。突然、足元が崩れクレバスに落ちた彼は、30メートルも落下したそうです。捜索は難航したそうですが、発見された彼は、歩行中の姿のまま安らかな顔をしていたそうです。どうやら彼は一瞬のうちに天国へと旅立ったようです。享年43歳でした。彼とは、日本映画学校で出会いました。互いに映画製作を夢見る18歳でした。出会った瞬間から、強烈な個性を放つ彼に僕は目を奪われました。毛穴という毛穴、その全身からエネルギーが噴き出ている、そんな印象でした。それと同時に僕は、彼の事を警戒した事を覚えている。それは、小動物が、初めて見る生き物を警戒する感じに似ているかも知れない。結果として僕は、今日まで彼の様なタイプの人間に出会う事はなかった。だから当時の自分が本能で彼を警戒した事は、とても理にかなった行動だった様に思える。映画は、物語を通して人間を描くものです。入学したての夢見る僕らは、必要以上に頭でっかちになって人間を語り合った。だから、チームを組んで映画を作るとなると、議論は、より白熱した。中でも平賀とは激論を交わした。今にして思えば、あれば議論ではなくマウントの取り合いの様なものだった。(この関係は最後まで続く。)僕は、平賀より真理に近づいて、打ち負かしてやりたいと躍起になっていたし、あいつもそんなところがあった。でもお互いにその時間が楽しかったんだね。いつしか、僕らは行動を共にする様になった。学校とは別に自主制作チームを作り、平賀とは何本もショートムービーを作った。僕は新しいアイデアが生まれると、真っ先に平賀に話したし、あいつも毎晩の様に電話をかけて来てはアイディアをふくらました。僕は本当にその日々が楽しかった。でも終わりはやってくる。2年生へ上がる直前、平賀が、学校を1年間休学して、山に挑戦したいと言い出したのだ。(記憶が正しければ、彼はこの時、海外を舞台にしたトライアスロンの日本代表選手に選ばれていた。)彼は、やはり異質で、他の学生と異なり、映画と同時に山を愛していた。そして、彼の夢の一つがエベレストの登頂だった。(彼は、後にその夢を実現させる。)とにかく当時の彼は、1年休学してでも、そのアドベンチャーレースにチャレンジする必要があった。僕は、その選択を認めつつ、平賀との映画制作が終わる事が寂しかった。平賀が学校側に、休学の申請をする際も、僕は一緒に付き添った。その帰り道、恥ずかしい話だが、僕は大いに泣いた。今にして思えば、1年の休学など些細な事でしかないのだが、当時の若く狭い世界にいた自分には、ようやく得た理解者を失う気持ちだったのだ。平賀が東京を発つ少し前、僕らは一眼レフを片手に江ノ島へ向かった。どちらが良い写真を撮れるか?暗黙の勝負だった。ファインダーを覗きながら被写体に迫る。その被写体の魅力を自然に引き出すにはどうしたら良いのか?風景をどう切り取れば、この雰囲気が伝わるのか?頭でっかちな自分はあれこれ考えながら一枚一枚シャッターを切った。当時はデジカメなど無い。写真はフィルムだ。どう仕上がるかは、現像するまで解らない。文字通り僕らは、魂を込めてシャッターを切った。5月20日、平賀の訃報を聞いてから、僕の中に奴との思い出が、どっと押し寄せて来た。でも記憶の片隅に埋もれている事も多かった。彼の葬儀に参列した後、喪服を戻しに実家へ帰った僕は、平賀の事を思っていた。本棚が目に止まり、記憶が甦える。平賀からは、よく本をもらった。あいつからもらった本には、必ずサインとメッセージが添えられていた。その事を思い出した僕は、片っ端から書籍をめくりサインを探した。なかなか見当たらない。以前実家を建て直した際に、だいぶ書籍も処分していた。あの中に紛れていたのか?苦労したが、ようやく一冊見つける事が出来た。「ONE」の中へ飛び立て‼︎どう言う意味だったのだろう?当時の彼は、僕らが抱える共通のテーマを書籍に記してよこしていた様に思う。「人様の本に落書きするなよ!」僕は内心嬉しく思いつつも、毎回、そうやってつっこんでいた。今となっては、全てのメッセージを愛おしく思う訳だが。そういえば、部屋に飾っていた江ノ島の写真は、何処へしまっただろう?実家を建て直す直前まで自室の壁には、平賀からもらった江ノ島の写真を飾っていた。押入を探しながら、記憶を掘り起こす。当時のアルバムが見つかった。あの時、2人で行った江ノ島の写真だ。何枚もの江ノ島の風景と一緒に僕は、平賀を撮っていた。懐かしい。彼は画になった。彼の放つ生命エネルギーは、撮るだけで撮影者を表現者に変えた。それを当時の僕は、自分の手柄とばかりに、何度もシャッターを切ったのだ。この日の写真は、現像した後で互いに見せ合った。当時の僕は、その出来映えに愕然とした。僕は、綺麗に撮ることばかりに必死で、出来上がった写真はどれも面白味に欠けるものだった。撮影時、一番手ごたえを感じた夕焼けを進む一艘の船もフレームの中へ収まってしまい、あの時感じた雄大さは無かった。平賀の写真はどうだろう?あいつも同じ風景を撮っていた筈だ…。平賀の写真に目を落とし、またしても僕は愕然とした。平賀は、地平線を斜めに切り取っていた。空と海のバランスも、広がりを感じるもので、あの瞬間の空気感がしっかりと感じられた。今にして思えば、地平線を斜めに切り取る事など、よくあるテクニックなのかもしれないが、当時の僕は、その発想を持ち得ない全くの素人であり、感性だけでそこにたどり着けるだけのセンスも無かった。当然、平賀も僕と同じで技術は持ち合わせていなかったが、彼は、直感で地平線を斜めに切り取り、その瞬間を見事にフィルムの中へ封じ込めていた。「これはいい写真だな。」僕は敗北を認めつつ彼に言った。「だろ!」平賀は嬉しそうだった。それから間もなくして平賀は、アドベンチャーレースのチームと合流する為、東京を発った。後日、その遠征先から僕宛にA3サイズの封筒が届く。中には、拡大されたあの江ノ島の写真が入っていた。長い事、自室の土壁に画鋲で止めていた為、シミや日焼けで色味が変わってしまった。裏面には、びっしりとメッセージが添えられている。いかにも彼らしいプレゼントだった。これを受け取った時、そして押し入れから引っ張り出した時、僕は二度も新鮮な気持ちで写真と、そして、込められたメッセージと向き合った。改めて良い写真だと思う。僕の宝物だ。      (次に続きます。)

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